スターリンの誤りの基礎は?


1990、7 福永

§T はじめに
 昨年の東ヨ−ロッパで始まった社会主義国の民主化の嵐は、ソ連のスタ−リン、ブレジネフらによる、社会主義からの逸脱に対する、改革の要求としての側面をもっている。形式的には、共産党の一党独裁に対する、政治改革の要求の形をとってあらわれてきたが、それはまた、これらの諸国における、国有社会主義の停滞、経済的困難にたいする、国民の不満の反映とみられている。
 このスタ−リン、ブレジネフの誤りとはどんなものであったのか。それは、
@ソ連にとっては大国主義、覇権主義、東ヨ−ロッパの諸国にとってはソ連にたいする盲目的追従の誤り。
A国内的には官僚主義、命令主義の誤り。
といわれている。
 ソ連の大国主義の誤りの事例としては、レ−ニンの民族政策に反して、バルト三国を併合した事や、ソ連型社会主義を拒否したユ−ゴにたいして、激しい孤立化政策をとったことに、東ヨ−ロッパ諸国、チェコに、ハンガリ−に、ポ−ランドに、また近年では、アフガニスタンにたいして、軍事力を背景として、それぞれの国に、ソ連追従の政府をおしつけ、政策に介入し、民族主権を乱暴に踏躙ってきたことが挙げられる。このほかにも、山のような資料を積み上げることが出来るし、それが、レ−ニンの教えに、如何に反しているかを証明することは、それ程困難ではない。たぶん、これからさらに多くの人たちが、このことを徹底的に追求するであろう。
 また、ソ連国内においては、過去二十年間での経済の停滞によって、資本主義国の生産力に対して、大きな水を開けられてきたことは、今や周知の事実である。物不足と商品の質の悪さは、国民の不満の種であったし、経済政策の失敗に対して、責任をとろうとしない官僚主義は、激しく批判されている。それらの政策が、共産党の一党独裁の政治制度によって、爆発寸前まで、維持されていた、民主主義の不在が、問題を拡大することとなった。スタ−リンの時代の粛正の嵐は、どのようなものであったかも、明らかにされてきつつある。経済的困難をおおい隠すように、指導者に対する個人崇拝がすすめられ、反社会主義活動弾圧、反共産党活動弾圧を名目として、秘密警察体制が敷かれていた事も、今日では明らかとなっている。このような、反民主主義的な権力の行使に対して、たとえばカ チンの森の事件のように、今後さらに多くの事実が、明らかにされてくるであろう。民主主義に対する、レ−ニンの主張と、如何にかけ離れていたかも、それぞれについての分析のなかから、明らかにされつつあるし、明らかにされていくであろう。
 われわれは、共産主義者といわれてきた、社会主義国の指導者が、社会主義の名のもとに犯した、様々な誤りの性質、理由と原因、及び、それを拡大助長してきたものを検討し、明らかにすることが必要である。このことは、本当の社会主義の姿を明らかにし、誤って理解されて来た社会主義を正しく広めるためにも、また同じような誤りを未然に防ぐためにも必要である。
 なにがスタ−リンを過ちに導たのか、彼の誤りを、当時の人々は認めて、彼を許してきたのか、あるいは、彼の意見に人々を納得させるものがあったとすれば、それはなんであったのかが、知りたいところである。ブレジネフの大国主義と制限主権論の誤りと、それを支えてきたものは、なんであったのかが知りたいところである。毛沢東の発動した文化大革命と、それに追従してきた周恩来らの、誤りの論理はなんであったのか、また現在の中国共産党の指導者達が、天安門事件にたいして、なぜあのような態度をとったのか、その論理は、どの点で科学的社会主義と異なるのかなど、我々が研究すべき課題である。
 まず、明らかにすべきは、誤りの性質を、彼らの言動の中から、その論理を明らかにし、教訓を引き出すことが必要である。何故なら、彼らの行為は、秘密裏に行なわれたのでなく、公然と大衆的運動として、行なわれたことだからである。東ヨ−ロッパに対する介入にしろ、文化大革命にしても、多くの誤りが、公然たる政治活動として行なわれたからである。また、国有社会主義経済にしても、集団化の過程において、権力的強制があったとしても、やはり、公然と行なわれてきた事であるのを、みなければならない。
 さらに、このような誤りに対して、批判が行なわれていたか否かは重要である。なぜなら、その誤りが避けられなかったか否か、の問題と関係してくるからである。未知の課題に対して、どんな誤りもない、などということはあり得ないことであり、試行錯誤も避けられないからである。問題は誤りを拡大せず、小さなうちに是正することが、出来るか否かが重要だからである。批判に対して、どのような対応がなされたかが重要である。国内的にも、国際的にも、行なわれたであろう批判に対する態度は、問題の解決の在り方として考えておかなければならない。
§U 大国主義、覇権主義は大ロシア民族主義、中華思想の現代版である。
 スタ−リンの個人的性格としての粗暴さのほかに、問題となるのは大ロシア主義であり、それは、遅れたロシアの民衆のなかに、深く広く存在していた思想であり、ツア−がロシアを統一し、周辺民族を併合して来た時代に、自らの行為を正当化し、ロシアの民衆を動員するために、広められた思想であった。それは中華思想と同じく、ロシア人の民族意識をくすぐり、他民族に対する優越性を意識させ、指導者である皇帝に尊敬の念を抱かせるに十分なものであった。社会主義とは何の関係もないこの民族主義は、ブルジョアジ−と皇帝と貴族たちが、盛んに広めたものであったが、労働者のなかにも、広く持ち込まれていた。ツア−とブルジョアジ−を打倒した労働者も、すぐには、彼らの思想から解放されたわけではなかった。
 しかしながら、この大ロシア民族主義は、社会主義者にとっては克服すべき課題として意識されており、レ−ニンの民族自決権の思想で克服すべきであった。スタ−リンがソ連の最高指導者となったのは、レ−ニンとトロッキ−の対立に象徴される問題が解決されたばかりであった。トロッキ−は、ロシア社会主義は、ヨ−ロッパ資本主義国での、社会主義革命の成功なしには、困難であると主張し、一国社会主義の可能性を、認めることが出来なかった。レ−ニンを支持したスタ−リンは、レ−ニン死後、「レ−ニン主義の基礎」を発表し、レ−ニンを擁護し、レ−ニンの後継者の地位を確立した。その後のスタ−リンの誤りは、彼の社会主義に対する貢献と関係していることを知らなければならない。彼は社会主義ロシアに対して、二つの大きな貢献をしている。すなわち、遅れたロシアを世界の大国に発展させ、帝国主義の包囲の中で、社会主義ロシアを守りぬいたこと、第二次世界戦争において、反ファッシズムの国際統一戦戦のなかに、社会主義ロシアを率いて、ヒ ットラ−のドイツに勝利したことなど、である。
 社会主義ロシアに敵意を持つ、帝国主義諸国の包囲の中で、国内建設をすすめると言う、困難な事業であったが故に、その成功は輝かしいものであった。この彼の貢献が、彼の権威の源であり、そこから、レ−ニンについての彼の解釈が、正統な解釈であり、彼の社会主義建設の方向が、社会主義社会の進む方向であるとされて来た。かれの粗暴さと、三十年代の粛清、と秘密警察の体制が批判されたのは、フルシチョフ報告においてであって、それは彼の死後であった。官僚主義と国有社会主義の矛盾が明らかとなり、解決を迫られたのは、ゴルバチョフになってからであった。
 毛沢東の場合も、似たようなことが見られた。中国共産党と紅軍を率いて、長征を成功させ、中国独自の人民戦争論をもって、十億の中国に革命を成功させ、土地解放を実施して農民の支持をえ、社会主義中国を打ち建てたのは、彼の功績である。彼の哲学的的著作「実践論」、「矛盾論」は人類に対する彼の貢献でもあった。この彼の中国人民に対する貢献の大きさが、彼の権威の源であり、彼の思想、彼の社会主義についてのイメ−ジが、社会主義中国の正統派の解釈となっていった。それが彼の誤り、他国の共産党に、人民戦争革命を押付け、さらに文化大革命の誤りを引き起こした。また中国革命の多くの輝かしい指導者達、劉少奇や、周恩来や、と小平らをもってしても、彼の生前において防ぐことの出来なかった最大の要因が、彼の中国革命への貢献であった。
 スタ−リンと毛沢東について、彼らの過ちが拡大され、その過ちを、彼らの生前において、是正することが出来ず、誤りを小さなうちに、食い止めることの出来なかったのは、彼らが、それぞれの国において、大きな貢献をなしていたからであり、マルクス・レ−ニン主義の解釈についての、絶対的権威を独占していたからであった。このようなソ連と中国の特殊性、民主主義の未成熟の社会状態によって、これらの指導者の誤りが、拡大されていったが、そのことをもって、この二人の指導者の誤りの原因とすることは出来ない。
§V スタ−リンの哲学
 スタ−リンの誤りを検討するためには、彼の哲学に立ち到らなければならない。そのためには、個個の業績と論文を検討することが重要であるが、もっと直接的には、やはり彼の哲学についての論文を検討するのがよい。ソ連共産党史(1938)の第四章第二節に「弁証法的唯物論と史的唯物論」の論文を載せている。
 彼は弁証法の特徴について、次の様にのべている。
 「(a)形而上学とは反対に、弁証法は、自然を、互いに切り離され、互いに孤立し、互いに独立したものや現象の偶然の集積とはみなさず、ものや現象が、互いに有機的に関連し、互いに依存し、互いに制約する、連関した統一のある全体と見る。・・・・・・・
(b)形而上学とは反対に、弁証法は、自然を、静止と不動、停滞と不変の状態とは見ずに、不断の運動と変化、不断の更新と発展の状態と見るのであって、そこではつねにあるものが発生し発展しており、つねにあるものが崩壊し、自己の生命を終わりつつある。・
(c)形而上学とは反対に、弁証法は、発展過程を、量的変化が質的変化に導かない単純な成長過程とは見ずに、些細な、隠れた量的変化から明白な変化に、根本的変化に、質的変化に移行するような発展、すなわち、質的変化が漸次的にでなく急速に、突然に、ある状態から他の状態への飛躍的移行の形態で起こるような発展、質的変化が偶然にではなく合法則的に、眼に見えない漸次的な量的変化の集積の結果起こるような発展と見る。・・
(d)形而上学とは反対に、弁証法は、自然物と自然現象とは内的矛盾が本来つきものであるということから出発している。・・・・」
 このスタ−リンの弁証法についてのまとめと、エンゲルスの見解とを比べて見よう。エンゲルスの「弁証法」と題された論文には、次の様に書かれている。
「(関連の科学としての弁証法の一般的性格を形而上学との対立において展開すること)してがって、弁証法の諸法則が抽出されるのは、自然の歴史ならびに人間社会の歴史からである。それらの法則は、思惟そのものの最も一般的な法則であるとともに、実にこれら二つの局面(自然ならびに人間社会)における歴史的発展の最も一般的な法則にほかならないのである。そして、要点においてはそれらは次の三つの法則に帰着する、
 量から質への、またその逆の転化の法則、
 対立物の相互浸透の法則、
 否定の否定の法則。」
 さらに、エンゲルスは「反デュリング論」のなかで、一章を割いて、否定の否定を論じているのである。
 スタ−リンは、事物の関連と発展が弁証法の見方であるとし、その発展について、エンゲルスの上げた三つの法則の最後のものを除いて、二つを取り上げている。重要なことは彼が、エンゲルスの三つの法則の中で、否定の否定の法則を除外している事である。この否定の否定の法則は、螺旋的発展の法則として知られているものであり、事物の発展の形態についての一般的法則である。エンゲルスがヘ−ゲルの弁証法のなかから、その核心として三つの法則を取り上げ、この否定の否定の法則にも重要な意義を認めていたが、スタ−リンは、事物の発展は量から質への転化の連続として、発展を理解出来るものと考え、否定の否定の法則のもつ重要な意義を理解しなかったのではないか、とおもわれる。
 勿論、スタ−リンも弁証法で言うところの、否定の意味を理解しなかった訳ではない。肯定的な側面を維持しながら、寿命のつきたものを破壊していく意味での、弁証法的否定は、機械的否定、全面否定とは異なり、無政府主義者との闘争では、欠かすことの出来ない立場であった。国家権力の無条件の廃止を主張する無政府主義者とは異なって、共産主義者は、社会主義社会での国家の役割を認めていたし、国家は社会主義社会において無用となった段階(共産主義社会)において、その機能を消滅させ、眠り込むのである。だから、ソビエト権力の発展の正当性を主張しようとすれば、自然に、肯定的要素を持つ、否定の意味を理解しなければならなかったからであった。しかし重要なことは、新しい問題の発生にたいして、何が受け継ぐもので、何が消滅すべきものなのか、について深い分析が必要だということである。
 スタ−リンの誤りである官僚主義、大国主義は、社会主義についての誤った理解、資本主義を否定して生れた社会主義における、資本主義社会のなかから、受け継ぐべきものと破壊すべきもの、を峻別することにおいて誤ったのである。否定の否定の法則こそ、このことに関する法則なのである。同じようなことは、社会主義を名乗った、ポルポト派のカンボジア革命においても、毛沢東の文化大革命についてもいえる。彼らの行なったことが、機械的否定であったことは、今日では明らかである。その意味では「矛盾論」を書いた毛沢東についても、改めて検討することが必要である。
§W 否定の否定
 エンゲルスは、この否定の否定について、どのように述べているかを見てみよう。先に挙げた「反デュリング論」のなかで、つぎのようにのべている。
「それでは、否定の否定とはなんであるか?それは、自然、歴史、思惟の、きわめて普遍的な、だからこそまたきわめてひろく作用している、重要な発展法則である。」
「弁証法における否定とは、たんに、いな、と言うことでも、あるものを存在しないと言明することでも、その物をかってなしかたで破壊することでもない。・・・さらにこのばあい、否定の仕方は、第一には過程の一般的性質によって、第二にはそれの特殊的性質によって、規定されている。ただ否定するだけでなく、その否定を再び止揚しなければならいのである。だから、第一の否定にあっては、第二の否定がひきつづき可能であるような仕方で、あるいは可能になるような仕方で行なわなければならない。どういうふうにすれば良いのか?それぞれの場合の特殊な性質に応じておこなうのである。」
 文化大革命中での宗教寺院の物理的否定は、今後の歴史研究の道までも閉ざしてしまうような否定であって、けっして弁証法的否定ではなかった。またスタ−リンの大粛清も、範囲を際限なく拡大したことのうえに、その方法も、もし、誤りがあったとしても、誤りを正す道をとざした、清算主義的否定であった。
 ここで言われている重要なことは、否定の否定の法則は、第一の否定が次の否定を可能なようでなければならないという点であり、第一の否定においては、解決すべき主要な要素ではなかったために、肯定されて残っていたたものが、第二の否定によって高い次元において、再び大きくあらわれてくるようでなければならない、とも言える。否定の否定は、次の高い次元での復活を含んでいることである。しばしば例として持ち出されるものとして、生物において、活動的個体の否定としての受精卵、その否定としての新たな活動的個体への発展がある。第一の否定において、個体の生物としての活動的機能は否定されるが、その情報は遺伝子を通じて保持され、それが次の個体活動を発展させるもととなっていることは、よく知られているし、そのメカニズムは生物学の研究対象である。
 人間社会も弁証法的発展の歴史である。人類発生以来、数万年の永きにわたり、人類は原始的、共産社会を営んできた。そこでは、個体と種族の維持のための、自然との闘争が中心的課題であった。道具の進歩と自然に対する知識が豊富になるにつれ、原始的農業、穀物の生産が進歩するとともに、食料の確保が安定して来た。農業における分業、灌漑、治水と、監督、保存、等が、生産労働から分離され、階級社会へと発展した。人々は奴隷と奴隷所有者に分裂した。一人一人の個人所有の道具による、自然発生的労働から、大規模な灌漑工事、頑丈で単純な農機具による、多数の奴隷による集団労働が、社会の生産の仕方となった。この段階では、食料を確保する自然との戦いにおいて、生産力は拡大し、生産は安定したが、自由な個人労働が否定され、集団的生産労働があらわれた。
 奴隷制社会は、領土的拡大が限界に到り、奴隷の供給がとどこおるようになり、他方で、奴隷の反乱と貴族社会の腐敗の進行とともに、集団的奴隷労働は不可能となり、奴隷に家族を認め、耕地に定着させ、また、貴族社会の腐敗は監督権を分散させ、やがて、封建社会へと発展して来た。奴隷制度の否定によって、大規模集団農場はきえ、小さな区画ごとに労働する、家族をもった、農民があらわれた。僅かではあるが、自由にすることの出来る生産物の所有が認められて、農場の手入れと農具の保存改良が進み、生産力は拡大した。生産手段の私的所有が、部分的にではあるが、認められるようになって、生産者と生産手段の所有者との結合は、全面否定の奴隷制度から、開放され、部分的に回復した。
 生産力の拡大と分業の一層の発展は、商業の発展、手工業の発展を促し、大規模な商品生産があらわれて、土地に農民を縛り付けておくことも、また、さまざまな封建領地ごとの制約は商品流通と衝突し、社会は資本主義社会へと変わることとなった。職業選択の自由、住所を変える自由、商品経済の発展は、封建制度と相容れなくなった。資本主義革命は、身分制を廃止し、生産手段を持たない自由な労働者を産みだした。土地に拘束された小規模生産は否定され、再び、大規模工業生産が始まった。生産者である労働者は、個人としての自由を獲得したが、生産力の所有者としての地位を失った。生産手段との関係でみれば、古代の奴隷制社会と変わるところはない。
 資本主義社会では、生産の社会性は拡大し、生産物はあふれるようになったが、十分なだけの商品の消費市場を見付けることが出来なくなった。生産物に対する資本家の私的所有は、生産の桎梏となった。剰余価値の獲得だけを生産の唯一つの基準としてきた、資本主義は、世界的規模での戦争を繰り返し、自然を破壊し、人類全体の生存すら危うくして来た。資本主義社会は革命によって否定されなければならない。共産主義者はそれを社会主義革命と呼んでいる。
 以上簡単に、人類社会の典型的な発展の道筋を追ってきたが、それは否定の否定の連続であった。すべての人類の社会がこのようなものであった訳ではない。古代社会の多くは消滅し、次の社会へ、どのようにして、発展してきたか、解らないままのものも多い。したがってまた、それら人類の歩いて来た道は、今後に研究されなければならない課題である。ヨ−ロッパを中心として、比較的よく研究されて来た歴史は、前に挙げたようなものであった。うえの例では、ヨ−ロッパ社会は、生産の形態としては、原始社会の分散的生産様式を否定して、奴隷制社会の大規模生産農場へ、生産者の生産手段の所有者からの完全分離、さらにそれを否定した、封建的所有の下での、管理された小規模生産へ、生産者の生産手段に対する部分所有、さらにそれを否定した、現代の資本主義的大規模工場生産へ、生産手段の所有から完全に自由となった資本主義生産における労働者の出現へと発展して来た。他方では、それはまた、自然に対する、組織された人間社会の在り方の歴史で あり、生産手段に対する所有関係の歴史であり、剰余価値の取得の形態の在り方の歴史でもあった。別の言い方をすれば、奴隷制社会以来今日までの社会は、生産に対する二つの階級に分裂した社会であった。すなわち、生産手段の所有者と生産者の分離、生産物の所有についての分離の形態についての歴史であった。したがって、階級社会になったときの、この巨大な否定、分業から始まった生産者と生産手段の所有者の分離という否定は、社会主義社会、共産主義社会において再び否定されなければならない。生産者と生産手段の所有者の分離は、生産手段の社会的所有によって解決されなければならなくなった。社会主義革命は避けられない。この社会主義革命によって否定されるものはどんなもので、復活されるものは何か、これについては次の節で検討することにしよう。
§X 社会主義革命がおこなう否定とは
 社会主義革命は、資本主義的社会を否定するが、それは同時に階級制度をも否定するものであり、前者は資本主義的搾取形態の否定であり、後者は搾取そのものの否定である。
社会主義革命は、二重の意味での否定でなければならない。この点で、奴隷制を否定した封建制度への変革とも、また、民主主義革命、資本主義革命が封建制度を否定したものとも異なっている。資本主義の否定が搾取制度の否定であるなら、社会は搾取のない社会へ到る筈であり、原始共産主義社会がそうであったように、各人は人間関係においては自由であり、平等である。勿論、その自由と平等は、生産力の圧倒的な発展のうえに築かれたものである点で、原始共産制の社会とは異なっている。科学的社会主義の創始者たちが考えたものはそのような社会であった。その片鱗は、パリ・コンミュンにおいて見られたし、レ−ニンの指導した社会主義ロシアにおいて見られたものであった。
否定の否定によって、高いレベルでの共産主義社会があらわれる。
 しかしまた、もし資本主義の否定が搾取形態の一つの否定にすぎないなら、そこには別の搾取制度があらわれるであろう事は予想される。もし仮に、それが存在できるとしたら、それは資本主義が否定して来た封建社会の要素と、原始共産制度を否定して誕生した奴隷社会の要素の両方をもったものとならざるをえない。そのような社会は安定したものではなく、極めて不安定で、短寿命であり、社会主義社会に到達するか、あるいは資本主義社会へ逆戻りせざるをえないであろう。
 両者の否定は、ともに資本主義の否定であるが、両者を峻別するのは、自由の問題と搾取の問題である。重要なことは、資本主義が封建的身分制度を否定して、農民が土地に縛られていることから、自由な労働者となる自由、資本家が労働者を搾取する自由を中心とし、身分や門地によって制限されずに、経済活動するための平等を社会にもたらしたことである。それは資本家が労働者を搾取する自由と、商品販売の自由を支えるものであったことはいうまでもない。経済的不平等を前提とした、資本主義の自由は、社会主義革命によって否定されるが、それは経済的不平等、資本主義的搾取の廃止によって、より広範囲の自由が保証され、自由の拡大という、発展的要素をもった、否定でなければならないことである。否定が機械的、全面的否定となる場合には、資本主義に至までに人類が獲得して来た、自由と平等が制限され、発展的否定とはならない。
 結局のところ、資本主義の否定が発展的否定であるかどうかは、自由と搾取の廃止の問題に帰着する。自由と、あらゆる搾取の禁止は、ともに、原始共産社会において、存在したものだからである。今日的表現をすれば、市民的自由、政治的自由と、民族自決権を擁護するかどうか、が分岐点となるし、また、搾取(他人の労働の結果を取得すること)の問題では、資本主義を否定した社会に搾取が存在するか否かが問題となる。もし搾取が存在するとしたら、勿論その搾取は資本主義のそれとは異なるものであり、うえに述べた封建制度と、奴隷制度の両方の特徴をもっていることである。それは権力の世襲や経済的特権官僚の存在を許すか否か、の問題に帰着するように見える。官僚主義の縄張り根性は、封建制度の領地主義と似ているし、官僚主義の跋扈のもとでは、生産手段が形式的な全人民所有であるにもかかわらず、実質的には所有が実感できないような状態がそれである。
生産物を自由に処分できないという意味では、奴隷社会のそれと似た状態にある。生産手段の所有者、管理者と生産者が分離している点で、階級社会としての特徴をもっている。
 ロシアをはじめ、現実の社会主義社会は資本主義の遅れた段階から、社会主義社会に入った。地球上では、高度に発達した資本主義社会から、社会主義社会へ移行したところはまだない。現実の社会主義社会が、社会主義の初歩的段階にある、とする見解は正しいように思われる。そして、そこで発生するであろう誤りのいくつかは、うえに述べた、社会主義革命がおこなう、資本主義の否定の二重性についての問題から発生した。
 その一つは国家と民主主義についての問題であり、別の一つは生産手段の国営化と官僚主義の問題である。これらの問題は、エンゲルスが述べているように、事物の特殊性についての分析なしに、結論をだすことは出来ない。レ−ニンも指摘しているように、資本主義の廃止から共産主義社会に至るには、かなりながい時代が必要である。その間は国家が必要であり、国家は資本家から生産手段を収奪して、社会的所有にするために必要であり、反革命を未然に防ぎ、生産を円滑にすすめるためにも、国家は必要である。国家は、軍隊と公務員なしには成り立たない。したがって、官僚主義が発生しやすい基盤は、社会主義社会といえども、努力しなければ無くす事は出来ない。また銀行と、教育、社会保証制度など、国家が直接管理しなければならないもの、国営企業の存在も、社会主義社会ではなくす事は出来ない。しかし、国民が必要とするものが総て、国家による計画的生産がふさわしいかどうかは、検討してみる必要がある問題である。
続く