認識論(要項)


1990、8 福永

科学者はそれぞれ自分の科学論、認識論をもっているが、個人的認識にしばしば誤りがあるものである。
正しい認識のための、認識の発展とはどういうことかについて知りたければ認識論について研究することが必要である。
間違った認識をするのは多くの場合、事実を正しく見ないで、それまで持っていた固定観念に囚われた観念論的な思考をするからであるが、誤った認識には、それなりの根拠があるのであり、直線性と一面性、硬直性と化石化、主観主義と主観的盲目、これらが人を正しい認識から逸れさせ、誤った認識に到らしめるものと考えられる。
ここでは正しい認識をするための認識論とはなにかについて考察する。
§T 認識の発展と認識論の発展
色々な認識論がある中で、ここでは武谷三男のものをとりあげる。  武谷氏は物理学と関係して認識論を展開した。彼は「現代物理学と認識論」では次のよ うに述べている。 「すなわち物理学の発展は、第一に即自的な現象を記述する段階たる現象論的段階、第二 に向自的な、何がいかなる構造にあるかという実体論的段階、第三にそれが相互作用の下 にいかなる運動原理にしたがって運動しているかという、即自かつ向自的な本質論的段階 の三つの段階において行なわれることを示した。」
 この武谷の物理学における認識論は、湯川による中間子発見と、その物理学における巨 大な意義に触発され、ニュ−トンを中心とした近代物理学の発展の過程の分析の結果とし て発表されたものである。とくに既存の哲学の認識論が、近代科学、個別科学の発展に対 して有効性を持ち得なかったことに対する彼の反発の結果であった。この武谷の三段階論 は、ヘ−ゲルの認識論すなわち論理学を現代物理学に適用したものである。
 武谷の認識論の特徴の一つは、認識が発展するものであるとの立場に立ち、その発展に は段階があること、すなわち認識に関する段階論である。もちろん認識論に段階論を導入 したことは彼が最初ではない。
 認識論での段階論は理論的には極めて自然なように見える。人間の事物についての認識 が発展するものであり、認識とは、思考が客観へ絶えず、限りなく近づいていくことであ るからである。意識の外に存在する客観を認めることと、それの頭脳ヘの反映を認めるこ とは唯物論である。
 認識論は人間の知識の真理ヘの接近のしかたは科学的に研究されるべき対象であり、一 定の法則的な道筋があることを前提としている。法則的なものはまた認識可能であり、認 識できる筈である。認識可能性を認めることは唯物論である。
 認識は人間の生き生きした活動であり、今日、多くの科学者によってなされているとこ ろの、自然を反映する活動である。したがって、認識論を研究するためには、これら科学 者の活動を対象としなければならない。そこには成功と失敗の無数の歴史が存在する。武 谷三男の三段階論もまたその一つであるが、認識論自体、認識活動の発展とともに変化し 、発展するものである。
 哲学的意味での実体の概念は、近代物理学で言うところの物体の概念と同じではない。 物理学上の例では、エ−テル、熱素がのちに物質の機能の一つにすぎないことが明らかと なったが、このことの物理学の発展の中で果たした意味は否定的なことばかりではない、 認識論上の意味は、それ自体が興味ある問題のひとつでもある。
 武谷が特に強調したことの一つに認識論の有効性の問題がある。  すなわち、一つの認識論を主張する人は、その認識論をあらゆる局面にわたって馬鹿正 直に適用することを私は要求するのである。そうすればただちに此迄の大抵の認識論は、 もはや一歩もすすめなくなってしまうのである。そしてそのばあい特に重要なことは、科 学の現在の問題に対して、現在の困難に対して右にゆくべきか左にゆくべきかの指導を求 めることである。この現在の瞬間における問題は、過去ほど問題は簡単ではないのである 。(哲学はいかにして有効さをとりもどすか、武谷三男)」
 彼の主張には些かの性急さがみられるが、しかし今日の認識論が持つ現代科学との関係 についての重要な指摘であることには間違いない。些かの性急さとは、どんな研究に対し ても適応できるようなそのような完成された認識論があることを前提にしていることに対 する批判としてである。認識論自体も発展するものであり、個別科学の発展と無関係に認 識論が存在するわけではないからである。哲学における認識論は、それが一般的であるが 故に個別の具体的事物の研究に対しては、ガイドラインとなる事はあるが、その分野の学 問研究の認識論に替えることは出来ない。個別の対象に対しては個別の認識論が必要とな るのである。特定の領域において妥当であるような認識論も領域を越えて適用すれば、真 理でなくなることは当然のことである。この意味で彼があらゆる局面ヘの特定の認識論の 無条件的適用によって、その認識論の妥当性を検証しようとする提言は妥当ではない。
§U 認識の出発
今日では科学が人間の認識活動の重要な部分となったが、そしてそれは個々の科学者に よる個別科学についての研究活動を通して進められているのである。科学は、社会的認識 として、独自の発展法則にしたがって発展するものである。科学を進めてきたものは、科 学活動を推進してきた原動力は生活と生産の必要性である。自然と社会についての認識に 関する系統的活動、すなわち科学に対する社会的必要性が科学者を社会的存在として認め るようになったのであるが、ここで問題とするのは科学を進めている原動力についてでは なく、科学が如何にして進められるか、という問題であり、認識活動の出発点はどのよう なものかをまず問題とする。
 人間の現在もっている知識の有限性と主観性こそ、ひらたく言えば、自己の知識と自然 との不一致の承認こそが認識の始まりである。この不一致の解消こそが認識の出発点であ る。この不一致の量的確大と整理の過程が現象論的段階の始まりである。分類と整理が一 定の段階に達すると法則性として理解されるようになる。
 このことは個人にとっても真理であるだけでなく、人間の自然認識の出発としても正し いと思われる。此迄の既存の概念による知識についての疑問、または不正確ではないかと いうこと、この自覚こそ新しい認識ヘの出発点である。武谷三男はこの認識の出発点の問 題を避けて、「正しい認識をするためには」というところから出発している。
 しかし、若い研究者にとっても、またベテランの研究者にとっても、「何を研究対象と するか」、「何が知りたいのか」を見出すことは、科学研究上では極めて重要な段階であ る。そのうえで、「どのように研究をすすめるべきか」が始まるのである。このことは個 別分野における科学研究の現状についての一定の知識、判断、意見を前提にして、新しい 研究が始まることを示しており、既定の知識についてのある種の批判的意見を前提として いるのである。人々の意見はその社会的存在を反映したものであるから、広い意味では、 これらの批判的意見もまた、それぞれの時代の社会的認識の段階を反映している。
§V 認識の発展、実体の導入、本質的認識
人間の認識には個人的認識の総和としての社会的認識がある。また、個人的認識が社会 的認識となるためには闘争が必要である。個人的認識が一つ一つの事物の最初の具体的認 識活動であるが、個人的認識は社会的認識の中でどのような位置を占めているかは、それ ぞれの具体的認識の対象によって異なる。総ての個人的知識が社会的知識となるのでない ことは個人的知識には誤ったものがあることからも頷ける事である。
 正しい個人的認識は社会的認識を豊かにし、社会的認識を発展させるが、その程度はそ れぞれの認識の対象によって異なる。社会的認識の発展の段階に即したものが、社会的認 識を発展させるのである。
 では社会的認識はどのような発展の仕方をするのか。その形式は実践を媒介とした旧い 認識と新しい認識との闘争の形をとって発展する。様々な現象の諸原因を見出すためには 、物質の認識を実体の認識(概念)にまで高めなければならない。他の面から言えば、原 因を本当に認識するということは、認識を諸現象の表面から実体にまで深めるということ である。思考が具体的なのものから抽象的なものへ上昇するとき、もしその思考が正しい ものであれば真理から遠ざかるのではなく、真理へ近づくのである。
 これら物質の認識を実体(概念)にまで高めることが、武谷のいう実体論的段階での実 体の導入だけを言っているのではなく、それを含んではいるが、それにとどまらない。  哲学で言うところの実体という概念でとらえられるものが物理的物体、質量をもったも のに限られないことは、近代物理学がいちばんよく知っていることである。たとえば、古 典力学のなかの諸概念、エネルギ−、運動量、質量、力、ポテンシャル、真空などは量子 力学や相対性理論の中で、変化させられ、新しく解釈された。現代物理学の発展の中で、 古くから人々が使ってきた、状態、場、などの抽象的概念が解釈しなおされ、新しい概念 として定義しなおされ、量子力学的物質世界の物質の物理的構造、諸関係の研究になくて はならない概念となっている。これらの物理学上の諸概念はいずれも物質の諸側面を部分 的にではあるが本質的なものを表している。
 物理学がニュ−トン力学の成立にあって、導入した実体は質量をもった物体と万有引力 と古典的な空間と時間であった。また原子核の世界に働く核力の研究において導入された 実体は、その属性として核子間に短距離力をもたらす中間子であり、それは核子の表面に あって、生成と消滅を繰り返している質量をもった実体であった。
 素粒子物理学は、多くの素粒子の発見によって、新しい段階に入った。素粒子の存在の 法則化のなかから新しい素粒子の存在が予言され、実験的に確認されてきた。今日では単 独では絶対に存在し得ない素粒子すらが仮定されている。
 生物学における最近の巨大な発展は、染色体に含まれる遺伝子がDNAとよばれる二重 螺旋の物質であり、その分子論的発見、すなわち、リン酸とデオキシリボ−スの鎖の横に 四種類の塩基、アデニン、チミン、グアニン、シトシンが様々に配列されたものであるこ との発見と結びついている。
 メンデルは生物の遺伝の諸現象を研究し遺伝に関する現象を説明する法則を発見した。 その後、生物体の中にあって遺伝情報を保持しているもの、すなわち、遺伝子という概念 でとらえられる実体探しが始まったが、生物の遺伝をもたらす遺伝子が染色体上の特定の 場所に存在することがわかったのは今世紀のはじめのことであり、それがDNAであるこ とが明らかとなったのは1940年台になってからであった。
 DNAの生物における役割、機能についての研究ももちろん行なわれているが、ここで は実体の分子論的構造の研究によって新しい進歩が始まったのである。ここでは現象の認 識から実体の導入へ、さらにこの導入された実体DNAの分解、DNAの構造の認識、す なわち新しい実体、四種類の塩基の配列の仕方であることの発見を基礎に発展した。
 認識論的にみれば認識をより深める実体の導入は、それぞれの対象の特殊性に応じたも のである。物理的実体は、さしあたっては構造を持たずただその属性としての力の発現、 質量、電荷、スピンなどを持つにすぎないものであるのに対し、生物学上の実体は、構造 をもった実体であった。事物の認識において実体の導入は本質的認識における一つの重要 な段階である。導入された実体の属性、諸機能によって、現象の諸性質が解明されるが、 実体の導入と現象の説明は同時的であり、(なぜなら実体の導入は現象の法則性の説明の ためであったから)次には類似的現象ヘ適用が始まる。事物についての将来が予言できる ということが事物を本当に認識したということであり、本質的認識である。予言は実践で 検証される。
まとめ
事物の認識の出発点は、既存の理論、解釈に対する疑問の提出である。人間は世界を統 一的に理解しようとして、あらゆる事物につて、それなりの説明と解釈を行なってきた。 したがって、新しい認識は、旧い認識への疑問として始まる。
 個人的認識は、その人の社会的存在によって、大きな制限を受けている下での認識であ る。このことが間違った認識に到る可能性のもとである。しかしこれは可能性であって、 絶対的にそうだという事ではない。実践は真理の基準であり、人間に誤りを気づかせる程 度には確かである。
 新しい認識が社会的認識となるためには、旧い認識との闘争が必要であり、一定の歴史 的期間が必要である。個人的認識が社会的認識となる過程は闘争である。
 認識の発展は、対象とする事物の固有の法則を反映し、新しい実体の概念を得て進行す る。事物の概念もまた認識の発展とともに発展させられる。
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