物理学のあゆみ


1996  福永

1 哲学の一部としての物理学

1ー1 事物(世界)に対する合理的説明
       

ギリシャに先行する古代の自然観
人間と自然は対立していない。自然は客体ではなく主体である。人間と自然は主体と主体の関係であり、自然は法則に支配された一般的関係ではなく、誰によってそのような姿になったかという創造の物語であった。
ギリシャ哲学に於ける自然
紀元前6世紀頃のタレスとピタゴラスにはじまるとされるイオニア時代 すでに自然から人格的なものを引き離し、自然を客体として扱う。自然は秩序あるものであり、必然性をもつ。その自然は生成されたものとして、その原始を探究した。それを原理として存在するもの、または秩序を導きだそうとした。彼らの宇宙観、物質観はその後多くの人々に影響を与えた。
デモクリトス(紀元前5世紀後半)は小さな分割できない粒子、即ちカラの空間の空虚のなかを運動している原子(アトム)からつくられる宇宙を想像した。原子は不変なものであり、さまざまな幾何学的形をもち、これによって結合して世界のあらゆる異なるものを形づくる原子の能力が説明された。また原子の運動により、あらゆる目に見えるものの変化が説明された。空虚すなわち何も詰まっていない空(カラ)を哲学に導入したが、以前の哲学者の宇宙は常識の宇宙であり、物質の充満した宇宙であった。
アリストテレス(BC384−322)は王子アレキサンダーの家庭教師をしていたこともあるが、彼は人類最初の大百科全書家であり、彼は当時関心をもっていた自然と人間についてあらゆることを説明しようとした。
アレキサンダー帝国でのヘレニズム文化にあっては、ユークリッド(紀元前300年頃)の幾何学、アルキメデス(BC287−212)の力学(てこの原理と浮力)、さらにヒッパルコス(BC190ー120)の天体観測が知られている。

1ー2 アリストテレスの自然学

デモクリトス(BC460頃ー370頃)の原子説(大きさのあるものの不可分性、空虚の存在、霊魂の物質性)などを批判し排除した。唯一の根元物質の第一資料(プロテ・ヒュレ)に温・冷・乾・湿の4性質のうち2つが加わって火(温乾)、空気(温湿)、水(冷湿)、土(冷乾)の4元素ができ、これらの組合せで第2の変化(石や血)、さらにこれらの組合せで第3の変化(顔や手)が生ずると考えた。
彼は physica (自然学)のなかで、自然とはものの運動或は静止の原理・原因であるとし、空間(そこに入りくるものとそこから去り行くものとの両者いずれとも異なるある何物かである)、時間(前と後とに関しての運動の数である)、運動(運動を主体から主体への移り変わりと限定した上で、更にその運動を性質の変化と量の増減と場所の変化の3つに区別する。場所の変化すなわち移動なるものが今日われわれがいうところの運動)について考察し自然運動と強制運動に、さらに自然運動を2つに分類し、運動を次の3つに分類した。
秩序が乱されない運動、天球の回転運動(円運動)
地上の運動のなかで、ある乱された秩序を回復する運動
物体の強制的な運動で駆動力を必要とする運動
  
何故落下するのか。物体は主成分は土である。土は元来下の位置にあるものであり、土が元の位置に戻るために落下する。
           
落下する物体の重さが重いものほど落下時間は短い。また物体の落下に要する時間は物体を取り巻く媒質の抵抗に比例する。
第3の運動については、強制された運動ー自然に反するこの種の運動には原因がなければならず、従って原因がなくなれば運動は終わる。
馬車は馬が引くから動くのであり、馬のない馬車は動かない。接触しなければ力は作用しない。
速さは駆動力に比例し抵抗力に反比例する。
矢が弓を離れても飛び続けるのは駆動力者の力が媒質を伝わって矢に働くからである。
       
空虚な空間では運動に対する抵抗がなくなり、瞬時に移動しなければならない。そこにおいては物体はどの様に運動してゆけば良いのかを知らない(物がないので駆動力も伝わらない)ことになる。真空の否定 

1ー3 アリストテレス運動学の解釈と論理の破綻

プトレマイオス(2世紀)の「天文学大全(アルマゲスト)」
天動説 星の配列は地球・月・水星・金星・太陽・火星・木星・土星・恒星天の順序とした。(ストア派の説の継承)
天体の運動理論は、本質的には等速円運動の組合せによって説明されなければならなかった。その1つは中心が地球からずれた離心円であり、もう1つは周転円であった。(ヒッパルコスの説の継承)
フィロポノス(6世紀) アリストテレスの「自然学」の注釈
  大風でも石や矢をそれほど飛ばすことができないという事実を挙げて、アリストテレスの放物運動を批判した。彼は投げられた物体が運動を続けるのは、駆動者が動力を媒質にではなく、物体そのものに与えるからで、この”こめられた力(vis impressa)”が物を動かし続け、外からの抵抗がなくても、それ自体、次第に消耗し、やがて運動は止む。媒質は運動にとって抵抗としてのみ作用し、速さを遅らせる役割を担うと。
ビュリダン(1300ー1358)のインペトス(impetus)理論
物体に刻み込まれた動力をインペトスと呼び、これは本来、永続的・恒常的なものであって、抵抗によって弱められない限り、それ自身としては自然に消耗することはないと考えた。このインペトスは物体の速さが大きければ大きいほど大きく物体の質量に比例すると考えた。「自由落下では重さが動力として落体内にインペトスを次々に与える。それが集積して増大するのに物体の質量は不変だから、運動はだんだん速められるという。また宇宙の創成にあたって最初に神が天体にインペトスを与えたとすれば、天空には何の抵抗もないので、このインペトスは永久に保持され、天体の永久的な円運動が簡単に説明される。」とした。
 
コペルニクス(1473ー1543)の地動説 「天球の回転について」
「太陽は万物の王座を占めている。これこそ光であり理性であり宇宙の支配者である。ヘルメス・トリスメギストはこれを神の顕現と名付けている」とし、太陽中心説を「現象を救うため」の仮設的な理論とは考えていなかった。
地動説に対する反論の1つ、もし地球が回転しているなら、地上の物体は回転から取り残されて地球の外に放り出されるであろうということに対しては、彼は地球の自転は自然的で強制的でない運動であるはづだということにしている。また太陽をめぐる地球の回転は重さの本質と矛盾するとの意見に対して、重さは世界の中心に向かう作用ではなく、1つのものになろうとする物体の努力であるからと説明している。

2 古典力学の成立過程

2ー1 新天文学と実験科学

ケプラー(1571ー1630)の3法則
  テイコ・ブラーエ(1546ー1601)は占星家として、天体運航表を正確にしたいとの目的から、16年にも及ぶ精密な遊星(惑星)観測を行っていた。
テイコの結果を引き継いだ助手のケプラーは火星の奇妙な運動に興味をもち、その詳しい分析の中から火星の軌道面と地球の軌道面の間の角度を決定し、交叉線上に太陽がくること、太陽は火星の軌道面上にあると同時に地球の軌道面上にあり、太陽は火星と地球の両方に共通する運動の中心であることを確かめた。このことから第1法則「遊星は楕円軌道を描き、太陽はその1焦点にある」と第2法則「遊星と太陽を結ぶ直線は、等時間に等面積を描く」をみいだし「新天文学」に発表(1609)した。
また8年後に第3法則「任意の2遊星が太陽の周囲を回転する周期の2乗は、太陽からそれらの遊星への平均距離の3乗に比例する」を「世界の調和」に発表(1619)した。
古い時代の哲学者の自然観が多くの観察を根拠とするよりはむしろ思弁に導かれた神秘主義的色彩が強かったのに対し、ケプラーは正確な観察事実に拠りつつ厳密な数学的推論の手法をもちいて3法則の発見に至った。
「観察事実に拠りどころを求めて法則を追求する」という物理学の性格の重要な手法を学ことができると朝永は述べている。
ガリレオ(1564ー1642)落体の法則 「新科学対話」
19才のとき振子の等時性を発見したといわれ、パドア大学に移って落体運動の研究を始めた。彼はアリストテレスの「同じ高さから物を落とすとき、重い物は軽い物より早く着地する」に対し「重い物と軽い物を連結すればどうなるか」と疑問を持った。
アリストテレスに従えば、いづれよりも重いからいづれよりも早くなければならない。他方で、一部は早く落下しようとしても他方は遅く落下しようとするから、その中間で落下する以外ではありえない。これは矛盾である。だからすべての物体の落下の仕方は重さには関係がないと考え、これを「実験」で追求しようとした(1604頃)。
直接的に材質の異なる球を落下させて実験してみたようであるが、より精密には斜面の実験によって、金属球が斜面を転がり落ちるとき、球が静止状態から出発するとき、その走行距離が時間の2乗に比例して延びてゆくことを発見した。彼は斜面を垂直にした場合においても現象は同じ筈だと結論し、また物体の重さにも関係のない自由落下における等加速度運動の概念に到達した。
彼は水平におかれた平板上の球は最初に弾かれたとすれば、その後はその速さを維持すると推論し、減速の原因がない限り物体は永久に運動し続けるという、ある種の「慣性の法則」を主張している(ニュートンの直線運動としての慣性の法則ではなく、彼のは円運動でのものである)。
放射体の運動が水平方向の等速運動と垂直方向の自由落下運動の合成であると言う仮定を確かめる実験を行い、弾かれた物体は放物線経路をほとんど外れていないと報告している。この実験は船のマストから落とした物体はマストのすぐ近くに落ちることの話として、地球が動いていても、地上の人はそれを感ずることができないことを示しており、地動説に対する反論への反論の根拠となっている。
ガリレオの物理学への功績は単に自然を観察するだけでなく、人間がわから積極的に自然にはたらきかける「実験的事実」にもとづいて自然の法則を認識することの重要さである。
 
彼は落体の法則を発見していながら、それが重力によるものであるとは考えず自由落下はアリストテレスの分類における「自然運動」であるとした。
ガリレオに対するローマ法王庁の告発と有罪判決(1633)
「被告ガリレオは、一部のものの教えた偽りの学説、すなわち太陽は世界の中心で不動、地球は動き、しかも自転するという学説を、真実であると信奉し、また弟子をとってこの説を教え、この説に関してドイツの一部の数学者と文通し、さらに「太陽の黒点について」なる書簡を出版し、そのなかでこの学説を真実であると詳説した。あまつさえ、それらの説に対して聖書に基づいてなされた反論に応酬しようとして、被告は聖書を自己流にこじつけて解釈した。以上が被告に対する告発の理由である。」「以上によって検邪聖者は、強い異端の嫌疑を被告にもたらした偽りの学説は聖書に違反するものだ、とかって宣告され明示されたにもかかわらず、被告はなおその学説を信奉し弁護してもよいと考え、かつそれを信奉した嫌疑がきわめて強いと判断する。従って、かかる犯罪者に対して教会法その他の法規において告示されている刑罰のすべてを招く結果になったことを判決し宣言する。」
 
運動量の概念については、例えばデカルト(1596ー1650)は「哲学原理」において「神が運動の第一原因であること、および宇宙において常に一定の運動の量を持つ、ということ。・・・」といい、3つの自然法則として、「自然界の第1法則:あらゆるものは、できる限り、常に同じ状態の中にとどまる。ということ、そして、ひとたび動かされたものはいつまでも運動を続ける。自然界の第2法則:すべての運動はそれ自体は直線的である。ということ。および、それゆえに、円運動するものは、その運動が描く円の中心から遠ざかろうとする傾向をもつ。第3法則:ある物体は他のもっと強い物体に衝突するとき運動を失わないが、反対にもっと弱い物体に衝突するときはそれに与えるだけ運動を失う」と
アリストテレスは真空を否定したが、実験的に真空を作って見せたのは、ガリレオの弟子のトリチェリーであった。(1643)

2ー2 ニュートンの力学

ニュートン(1643ー1727)の「自然哲学の数学的原理(プリンキピア)」は3巻からなっている。第1巻と第2巻は「物体の運動について」という題のものであり、第3巻は「世界体系について」となっている。ニュートンーは彼の著書をユークリッドの「原論」にならって構成した。すなわち、いくつかの定義から出発し、つぎに基本的な法則、いわゆる「運動の3法則」を掲げ、これを公理としていろんな定理を導き出した。彼は「万有引力」の法則を先の運動の3法則に加えることによって、ケプラーの見いだした惑星の運行についての現象論的3つの法則を完ぺきに導くことが出来た。
物質量(質量)とは物質の密度と大きさ(体積)をかけてえられる物質の測度である。この量は個々の物体の重量としても知られている。と言うのは後で述べるように、私は極めて精密にしつらえた振子の実験によって物質量が重量に比例することを見いだしたからである。(重力質量と慣性質量)

運動の3法則
法則1 すべての物体は、その静止の状態を、あるいは直線上の一様な運動の状態を、外力によってその状態をかえられない限り、そのままつづける。
法則2 運動の変化は、及ぼされる起動力に比例し、その力の及ぼされる方向に行われる。
法則3 作用に対し反作用は常に逆向きで相等しいこと。あるいは、2物体相互の作用は常に相等しく逆向きであること。
運動の変化とは運動量の変化のこと、すなわち運動量の時間微分、
運動量とは速度X質量で定義されるものである。
性質のわかった力のもとでの物体の運動は、その初期条件を与えることによって一意的に決定され、逆に運動を決定するには初期条件を与えねばならぬ。(運動の可逆性)
ニュートンは地球上の重力と天体の運動を決定する力とは同じものであることを発見した。(万有引力)
万有引力 二つの物体の間にはたらく引力で、その大きさは両物体の質量に比例し、その間の距離の2乗に逆比例する。
ニュートン力学はアリストテレスの時間・空間の一様性の概念を変えるものではない。また質量についてはデモクリトス流の原子論を基礎とし、その不変性を前提とした。

続く